ロシア大好きなロシア旅行者のブログ

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【ロシアの軍艦島】サンクトペテルブルク郊外・シュリッセリブルクのオレシェク要塞でピクニックしてみた・後編【要塞島のち牢獄島】

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

2019年7月、サンクトペテルブルク市内からバスで40分+船で10分くらいの場所にある、シュリッセリブルクのオレシェク要塞という離島に行ったのでレポートします。

オレシェク要塞の概要・サンクトペテルブルク市内からシュリッセリブルク桟橋までの行き方は、前編をご参照ください。

 

シュリッセリブルク桟橋からボートで10分弱、オレシェク要塞が近づいてきました。このアドベンチャーよ…。おとぎ話に出てくるお城みたいな塔がかわいい。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

島の陸地に建っている白黒ボックスがチケット売り場。ここで入場料として大人1人250ルーブルを支払います。パンフレットとか公式ガイドブックも売ってる!

ツアーガイドもあるのでしょうが、自由に散歩したかったので申し込みませんでした。どうせロシア語も英語も分かんないし。

 

ちなみに島内のマップはこんな感じ。5つの塔とその城壁に取り囲まれた、20分くらいでぐるりと一周歩けるような小さな島です。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク


チケット売り場を通りすぎると、城門のあるゴスダレバ塔から入場するんだけど、塔の屋根のてっぺんに鍵の形をした飾りがついています。かわいい。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

この鍵の飾りは、先ほどの船着き場に銅像として建っていたピョートル1世が、90年続いたスウェーデンの占領から1702年にオレシェク要塞を奪還した際、「北部戦争勝利への始まり、バルト海へのさらなる進出のカギ」としてこの要塞を「シュリッセリブルク(鍵の都市)」と名付け、記念に作らせたものだそう。

(第二次世界大戦時に塔ごと破壊されたため、現存のものは1980年代に再建)

 

ほかにも「敵とともにあった90年」(90年間の占領を終わらせてやったぜ!の意)と刻印された領土奪還記念メダルを発行したり、10月になると毎年要塞までお祝いに来たりと、このオレシェク要塞が、国土防衛においていかに戦略的重要地点だったかが分かります。領土への執着心でロシア人に勝てる気がしない。

 

この「鍵」にあやかったのかはわからないけど、そういえばバス停から船着き場へ歩いて行く途中、橋の欄干にカップルの名前を書いた愛の南京錠がたくさん取り付けられていたなあ。ロマンチック。

ユーリとナターシャの文字。お幸せに!私も推しの名前書いた鍵をつけてみようかな。うん、やめとこう。

 

トンネルを抜けると、廃墟であった

壁内に入ると、中庭中央に1828年に建設されたヨハネ聖堂跡が見えます。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

第二次世界大戦時、ネヴァ川を挟んでシュリッセリブルク市街地側はドイツ軍に占領されたものの、このオレシェク要塞はソビエト軍が守り抜き、ドイツ軍の上陸を許しませんでした。その功績をたたえた記念碑も建っています。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

3人の兵士の銅像は、以前は聖堂内部の黒い円の真下に配置されていましたが、2019年7月に私が訪れた時には上記写真の位置に移動され、聖堂内部には入れないよう柵がおいてありました。

 

これはおそらく、戦後当時から手つかずのまま残っている廃墟の老朽化が進み、瓦礫が頭上から落ちてきたのだと思います。今後建物の修復が進むと、当時のままの姿を見ることも難しくなるのかもしれません。

 

記念碑の一部は、爆撃時に破壊された建物の鉄くず部分を使用しているそう。このドアの砲弾跡もドイツ軍との戦闘時に受けたもの。ヒエッ。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

軍用銃も置いてあります。これ本物なんだろうか…?どんなスペックなんだろう。教えて、ミリタリーマニアの方!

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

ヨハネ聖堂の真裏には、1352年・古代ロシア時代に建設された当時の、要塞壁の遺跡を見ることができます。少し下がったところにあり、トタンでおおわれています。

出典:https://anashina.com/krepost-oreshek-shlisselburg/

1352年創建当時の、オレシェク要塞壁の遺跡。

 

秘密の囚人たちを閉じ込めた「秘密の家」

中庭の北端に、四方を壁に囲われた一角があり、旧刑務所「秘密の家」が建っています。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

旧刑務所「秘密の家」外観。平屋一戸建て10DB(独房)。

旧刑務所「秘密の家」はオレシェク要塞島内で一番最初に建てられた刑務所。帝政ロシア農奴解放を要求する「デカブリスト」たちの収容施設として1798年に建設され、政治犯(=秘密の囚人たち)の刑務所であることから「秘密の家」と呼ばれていました。

 

写真右手、壁際に大きな木が植えてある場所で、1887年、アレクサンドル・ウリヤノフ(レーニンのお兄ちゃん)当時21歳で絞首刑となりました。レーニンのお兄ちゃんは、革命組織「人民の意志」に所属し、ロシア皇帝アレクサンドル3世の暗殺未遂事件を起こした人物。ゴールデンカムイ』に登場するソフィアやキロちゃん達が暗殺したのはアレクサンドル2世なので、彼らの後輩ですね。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%8E%E3%83%95

アレクサンドル・イリイチ・ウリヤノフ氏の写真。

アレクサンドル・レーニンやないんかい!と思ったらレーニンペンネームなのね。レーニンも、本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフだって。

 

建物は博物館となっており、独房の内部も見学できます。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

デカブリストたちが収容されていた古い独房。お茶とかタバコとか筆記用具とかも使ってOKだったらしいです。さすが元貴族。最初に投獄された囚人の中には、ピョートル1世の前妻もいました。元夫の死後、後妻の策略で投獄されたらしい。怖すぎ。

 

社会主義革命運動が盛んになり島内に刑務所棟が増えた後は、秘密の家は懲罰棟として使用されるようになりました。下記の写真は懲罰房の一室。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

壁に埋め込まれた机やイスなど、デカブリストたちが過ごした古い独房と比べてかなり質素。こんな部屋でステイホームなんて気が狂いそう。でも意外と窓が大きくて日当たりよし。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

刑務所の建物はロシア革命時に破壊されたので、現存の施設は戦後に再建されたものですが、往時の姿が蘇ってむしろ追体験がはかどる。

 

島から眺める、雄大なラドガ湖の景観

秘密の家の裏庭を抜けた壁の向こうには、ヨーロッパ最大の湖ドガに面した浜辺があります。岩手県より一回り大きいくらいの湖。でかい。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

ドガ湖の水はネヴァ川を通ってサンクトペテルブルク市内を流れ、フィンランド湾へと流れ着きます。琵琶湖擁する滋賀県民と京都府民の関係性に似てますね。シュリッセリブルクの住民を怒らせラドガ湖の水を止められると、ペテルブルクっ子たちは手も足もでません。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

大きなタンカーも行き交い、今でもラドガ湖が交通の要衝であることがうかがえます。木陰もあり、清潔で気持ちの良い湖のほとり。浜辺に座ってサンドイッチを食べている夫婦もいました。天気の良い日はとてものどかです。ぼーっと過ごすのに最適。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

浜辺に自生しているクルミの木。オレシェク要塞島の元の名前であるオレホヴィ島(Island Orekhovy)は「クルミ島」という意味。貴重な栄養源として、ここで過ごした囚人や軍人たちの命を繋いできたのでしょうか。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

浜辺の先に映っているカラレフスカヤ塔の奥には、1884年から1906年の間にこの地で死刑となった、レーニンのお兄ちゃんを含む革命家たちが埋葬されている集団墓地があります。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

出典:https://anashina.com/krepost-oreshek-shlisselburg/

弟のレーニンは言わずと知れたソビエト建国の父で、モスクワの赤の広場に防腐処理された遺体が一般展示されているのに比べ、お兄ちゃんの遺体はこんな小さな島にひっそりと眠っています。長男って損しいだよね。でも、下手に偉人になって永遠に遺体を世間の目にさらされ続けるより、のどかな島で湖でも眺めながら仲間と一緒にいられるほうが、死後の人生としては幸せかもしれない。

 

ちなみに墓地の真裏は砦になっていて、戦時中に使用されたであろう砲台跡が残っています。頭上でドンパチやられて仏様もさぞ驚いたことでしょう。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

 

塔の中や壁の上も入れます、歩けます

カラレフスカヤ塔をはじめ、島内の建物内部にはいたるところに秘密基地のような通路や塹壕跡が数多く残されており、ダンジョン感が素晴らしい。今後老朽化が進めば立入禁止の箇所も増えてくるかもしれませんので、お早めに。

15世紀後半~16世紀前半に建てられたカラレフスカヤ塔の最下階にある、防護砲室の内部。スウェーデン領時代の1697年の再建を経て、現存のものは1980年代に再建。オレシェク要塞,シュリッセリブルク

15世紀後半~16世紀前半に建てられたフラジュナヤ塔(フラッグ=旗)。現存のものは19世紀後半に再建。

ドガ湖に面した壁とフラジュナヤ塔~ゴロフキナ塔間の壁上部分は通路になっており、追加料金を支払えば入場可能。湖や敷地内の全景を一望できて非常にオススメです。たしか100~150ルーブルぐらいだったと思う。壁の高さが10メートル弱あるので高所恐怖症の人はしんどいかもしれませんが、プチ『進撃の巨人ごっこが楽しめます。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

進撃の巨人,漫画,ロシア

サンクトペテルブルク中心部にある書店のコミックコーナーで売ってた。リヴァイの外伝まで揃っとるやんけ。諌山先生すごい。ロシア語しゃべる推しが見られるなんて…と思ったけど一冊1400円もしたので断念。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

要塞内の敷地全景。通行人のサイズ感からも、この島がいかにこじんまりしているかが分かる。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

ペトロクレポスチ湾を一望できるレストラン。写真に写っている湖面は、ラドガ湖全体の20分の1くらいの部分です。どれだけデカい湖なのか…。

 

島内にはレストランや売店もあります

探検しているとおなかが空いたので、壁をおりてレストランに向かいます。お店の前を通ったら店員のお兄さんが外で美味しそうなシャシリク(肉の串焼き)をバーベキューで焼いていたので、お昼にいただきました。

お肉は豚肉。ソースはチリソースっぽいちょっと甘辛めのやつで美味しかった。ロシアのシャシリクってどこで食べても美味しい。マリネにした肉を炭火で焼くから臭みがないし、お肉のうまみと香ばしさがすごい。酢漬けの野菜も付け合わせにぴったり。スライストマトは日本と違って全く甘くない野菜本来の味。

 

これで500ルーブルくらいじゃなかったかなあ。日本円で1000円しないくらい。そんなに高くなかった気がする。サンクトペテルブルク中心部との物価の違いよ…。

中国人観光客が多いらしく、英語と中国語のメニューもありました。店員のお兄さんはいろんな国の言葉を勉強するのが好きみたいで、いろんな国の挨拶を披露してくれた。すごい。コンニチワ~!はマスター済だったので「美味しい」を教えておいた。

 

建物自体も素朴な感じだしメニューもシンプルなものが多かったけど、こういうのでいいんだよこういうので。ちょうど中途半端な時間で店内もガラガラだったから、湖が見える特等席でのんびり紅茶を飲みました。

これでまた探検の続きができる! 

 

「人民の意志」メンバーを投獄するための「新刑務所」

 島内には2か所の展示施設があり、一つは先ほど訪れた「秘密の家」で、もう一つは1884年に建設されたこの「新刑務所」。「秘密の家」建設から約100年後、皇帝暗殺テロなどの革命運動を行う秘密結社「人民の意志」のメンバーを投獄するため1884年に建設されました。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

「人民の意志」メンバー40名を投獄するために建てられた新刑務所の外観。2階建ての建物には40の独房。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

独房の中はこんな感じ。さっき見た「秘密の家」の懲罰房みたいにシンプルですね。新刑務所が完成した後は、「秘密の家」は懲罰房や死刑執行前の拘置所として使われていたので、囚人たちがメインで過ごしていたのはこの新刑務所の独房でした。

 

投獄された囚人の多くは、20年近くこの島で過ごしたそうです。1884年1906年の間に投獄された政治犯68人のうち、15人が刑死・15人が病死・8人が発狂し3人が自殺。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

独房の窓。20年間この白い四角を見つめながら過ごしたのでしょうか。

 

この島に訪れた2019年7月当時は、まさか1年後に世界中が自宅軟禁を体験することになるとは思わなんだ。移動の自由。住居の快適性。人とのふれあい。全世界がステイホームの息苦しさを経験した今、もう一度この地に訪れれば、より濃厚に革命家たちの苦しさに思いをはせることができるかも。

 

島内で一番新しく、一番大きな刑務所「四号棟」

その後社会主義革命運動が活発になるにつれ囚人の数も増えたため、1911年、500人の囚人を収容可能な刑務所「四号棟」が建設されます。島内の刑務所は3棟しかありませんが、「秘密の家」は現役時代に1度建て直されているため、3番目に建てられた新刑務所に続き、4番目に建てられた刑務所棟という意味でこちらは「四号棟」となりました。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

こちら方向を向いている右側の棟が四号棟。画面右方向を向いている左側の棟は監視棟。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

四号棟の完成により、オレシェク要塞は全島で最大1000人を同時収容可能となりますが、このころになると政治犯のみならず政治思想の無い一般の凶悪犯も投獄されるようになったらしい。そうとう治安悪かったでしょうね。

 

政治犯ってそもそもインテリな知識階級人だから、共同生活を送るうえでのモラルとかはあったと思うんだよね。一般の凶悪犯たちが仲間入りしたことで、世紀末ヒャッハー的生活様式が幕を開けたことでしょう。

 

ここから見上げるだけだとフェンスもあって屋内の様子がよくわかりませんが、要塞の壁の内部には一部回廊が復元されている部分があるので、そこへ登れば四号棟の屋内を高い位置から観察できます。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

回廊への入り口。狭いし階段急だし手すりが片方にしかないので、降りてくる人を待とう。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

内階段の中はこんな感じ。階段の一段が小さいうえに若干高くて怖い。コロナ菌が不安でも手すりをしっかりつかみながら上り下りするべし。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

4号棟の建物はシルバニアファミリーのおうちみたいに南側ががっつり削げてるので、回廊の窓から、3階と同じ高さの目線で屋内を観察できます。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

建物は朽ち果て、床からは雑草が生え放題。まさに「つわものどもが夢の跡」状態。むき出しになった鉄骨やフロアの上り下りに使っていたであろう階段が生々しい。

 

壁が丸ごと削ぎ落とされているので、建物を構成するレンガの積み方とかまでよくわかります。さすが牢獄とあってかなり分厚い壁。イギリス積みっぽくも見えるけどフランス積みかな…?教えて、レンガ積みに自信ニキ!

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

独房の一室をズーム撮影。なんか白いホーロー鍋みたいな残置物が机の上に…あれでスープとか飲んだのかな。

 

1917年のロシア革命と同時に島内の囚人たちも全員釈放され、「元囚人」となった人たち自身の手で建物は焼き払われます。その後、第二次世界大戦時にドイツ軍からの爆撃によりさらに損傷。歴史の怨嗟と殺意がこもった素晴らしい廃墟っぷり。

 

四号棟の南側だけ壁が削げているのは、たぶん第二次世界大戦時、川を挟んで南側にあるシュリッセリブルク市街地側からドイツ軍が爆撃してきたからだと思う。すさまじい爆撃跡ですが、そのおかげで屋内の様子をじっくり観察できます。今いる回廊も同じく損壊しましたが、こちらは戦後に復元されているので立ち入っても安全。

 

要塞壁の回廊を端から端まで歩いてみる

ちなみに回廊の内観はこんな感じ。ところどころレンガの色が異なるので、部分によって復元時期が異なるのだと思います。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

ゴスダレバ塔とゴロビナ塔をつなぐ回廊。中央に映っている黒いドアは、さっきの階段からの入り口。左側には要塞内を見渡せる大きな窓穴、右側には要塞外への砲撃用の小さな窓穴(狭間)が開いています。

 

要塞の外からみた回廊壁の外観はこんな感じ。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

真ん中に映っている丸い塔がゴロビナ塔で、左手奥に見える塔がゴスダレバ塔。回廊は、ゴロビナ塔から左右に生えている両翼の壁の内部。この真裏に四号棟があります。

 

今では回廊が復元されている部分は写真に写っている部分しかないけど、かつてこの城壁が最初に建設された16世紀には、要塞の壁は一周すべてが回廊になっていて、塔と塔を接続していました。

 

全長740メートル、高さ12メートル、壁の厚さ4.5メートル。無垢の巨人が襲来してもなんとかなりそう。各塔をつなぐ回廊は、戦闘時に兵士が要塞内を素早く移動できるように設けられたもの。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

回廊と連結しているゴスダレバ塔内部への入り口。冒険心をくすぐる重厚な見た目の扉がすばらしい。映画のセットみたい。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

回廊の砲撃用の窓穴(狭間)からみた要塞外の景色。ネヴァ川を挟んで、シュリッセリブルク市街地が見えます。第二次世界大戦時にここで武器を構え、向こう岸からくるドイツ軍の爆撃と戦ったソビエト軍たちも見た景色。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

回廊の端っこに、鉄柵の昇降機を発見。この下の階には船着き場から要塞内への入場門があって、この昇降機で鉄柵を上げ下げして、門を開閉します。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

この鉄柵が上下に昇降します。

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

奥に写っている鉄格子は、さっきとは反対側の回廊の端っこ。そこから先は修復されていないので、入れる部分は全長約200メートルくらいだった。兵士になった気分で、回廊を全力ダッシュ

 

しかし回廊の内部の壁の色が全然違う。どうせ修復するなら色を揃えたらよかったのにテキトーすぎるだろと思うけど、ゴスダレバ塔が修復されたのが1983年とかだからそれくらいの時期かも。まだまだソ連崩壊前だったので、テキトーだったのかなあ。

 

ちなみに16世紀ごろの要塞壁は、いろんな色合いの石灰岩でできていて、一番古い石積みは茶色がかった紫色で、後から積まれた石積みは青みがかった灰色をしていたらしい。シュリッセリブルクから東へ100km先のヴォルホフ川の採石場から運んできたものだそう。その部分はどこの壁で見られるんだろう。もっとしっかり探せばよかった…orz

 

激戦の歴史を700年見守り続けたオレシェク要塞

オレシェク要塞,シュリッセリブルク

1702年、スウェーデンからオレシェク要塞を奪還する際に亡くなった兵士たちの集団墓地。正確な犠牲者数は不明ですが、約300~600名と伝えられています。

 

島の面積が200×300メートルくらいのこじんまりとした小さな観光地ですが、意外と見どころはたくさんあるので、ツアーガイド無しで3時間ほど滞在しても飽きませんでした。

 

オレシェク要塞は1323年に古代ロシアの王様ユーリ・ダニロヴィチがオレホヴィ島に木造要塞を建築したのが始まり。日本は鎌倉時代後醍醐天皇が即位したくらいのころです。オレホヴィ島自体も、初期ノブゴロド年代記にも言及されていたので1228年には存在を認知されていた古くからある島。1410年頃には兵士だけでなく農民や漁師、商人たちも住んでいました。

 

創建からおよそ700年、タタールのくびきや北方戦争ロシア革命や世界大戦など、ロシア国内では数々の激戦が繰り広げられてきましたが、オレシェク要塞はロシア北西部の国防の砦として、国を守る英雄たちが活躍した激闘の舞台でした。

 

ただ、今回参考にした資料はすべてロシア側の立場から記述されたものなので、スウェーデンやドイツ側の立場から記述された資料も、ぜひ見てみたいですね。双方の国の言い分を比べっこすると楽しそう。

 

 

 

かつて長い歴史の中で、たくさんの人たちがこの島で過ごしていて、ここから見える景色をいろんな思いで眺めていて…それと同じ景色を現地で見て体験するのって、やっぱり感動しますね。特にオレシェク要塞みたいに歴史もドラマもある、いろんな情念がこもってそうな場所では。

 

画像だけネットで検索して、原っぱも廃墟も湖もあってピクニックしたら楽しそう♡とよく知らないまま現地に行きましたが、もっといろいろ調べてから行けばよかった…。今から行かれる方はぜひ、軽く情報収集した上で遊びに行ってみてください。まあ、予備知識ゼロでぼ~っと散歩しても楽しめちゃうくらい、観光地として素晴らしいのは紛れもない事実です。

 

 参考文献:

『КРЕПОСТЬ ОРЕШЕК』(公式ガイドブック)

Государственный музей истории Санкт-Петербурга

『ORESHEK FORTRESS TOURIST MAP』(公式パンフレット)

Государственный музей истории Санкт-Петербурга

オレシェク要塞公式サイト:

https://www.spbmuseum.ru/themuseum/museum_complex/oreshek_fortress/?lang_ui=en

『Достопримечательности Куда сходить, что посмотреть』:

https://dostop.ru/leningradskaya-oblast/krepost-oreshek.html
『ИСТОРИЯ И ПУТЕШЕСТВИЯ』:

https://anashina.com/krepost-oreshek-shlisselburg/

Wikipedia「アレクサンドル・ウリヤノフ」:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%8E%E3%83%95

 

 

Naru Marina

 

※出典の無い画像はすべて筆者撮影・作成